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スペイン到達以前
 スペイン人到達前のアルゼンチンには、約15000年前にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸にたどりついたとされるモンゴロイドの子孫が住んでいました。アルゼンチン南部のパタゴニア地方にはクエバ・デ・ラス・マノス(「手の洞窟」、紀元前7300年~)など先住民の暮らしを物語る壁画が残されています。16世紀にスペインの探検隊が到達した当時は焼畑や狩猟採集などを行う先住民族約30万人(約20集団)が住んでおり、インカ帝国の影響下にあった北西部が先住民の最も多かった地域でした。


ラプラタ河河口に
最初の街を築いたメンドーサ

16世紀 スペイン人の到達
 
1516年、カスティーシャ王国の名のもとにこの地域を探検したファン・ディエス・デ・ソリスはラプラタ川に到達しました。これが現在アルゼンチンとなっている地域にスペイン人が足を踏み入れた最初の瞬間です。その20年後、カルロ5世により派遣されたペドロ・デ・メンドーサがラプラタ河の河口付近に最初の街サンタ・マリア・デ・ロス・ブエノス・アイレスを建設しました。この街は住民との戦いで荒廃しましたが、1580年にフアン・デ・ガライが再建を果たします。その後、ブエノスアイレスは貿易によって発展していきますが、一方では先住民とスペイン人の苛烈な戦いが続いていきます。一部の先住民は街の周辺に暮らし、白人の労働力となりますが、多くの部族は抵抗を続けます。しかし、17世紀から18世紀にかけて、イエズス会は宗教の下に共産主義的なコミュニティーを形成し、修道士や神父らが先住民に農業や工芸を教えながら共同生活を営みました。これらのコミュニティーはアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルにかけての地域にいくつも存在しましたが、18世紀後半には勢力を強めるイエズス会を牽制しようとするスペイン、ポルトガルによって神父らが追放され、コミュニティー自体も荒廃していきます。

 1776年、スペイン本国のカルロス3世はペルー副王領の一部だったアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、チリ、ブラジルの一部などを広大なリオ・デ・ラ・プラタ副王領として再編成し、ブエノスアイレス市を首都に定めました。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は政治的、経済的に発展を逐げ、ブエノスアイレスはヨーロッパと副王領各地とを結ぶ中継港として繁栄しました。それに伴い、クリオージョと呼ばれる現地生まれのスペイン人は、ラ・プラタ地域への侵略を企てた英国軍を2度にわたって破るほどの力をつけ、スペイン本国の貿易独占に対する不満や本国人との軋轢などから、自治への機運を高めていきました。また、アメリカ合衆国の独立やフランス大革命などの刺激を受けてクリオージョらは独立への意志を固めたといいます。
  19世紀 スペインからの独立
ヨーロッパでは1807年、ナポレオンがスペインを占領し、スペイン国王フェルナンド7世を捕らえました。これを機に、リオ・デ・ラ・プラタ副王領では同年5月、ブエノスアイレス市議会が副王の退位と自治委員会設置を実現させ、事実上の独立を宣言しました。この独立に向けた革命は「5月革命」として知られています。5月革命以後、各地で旧勢力との解放戦が続けられましたが、建国の英雄サン・マルティン将軍らの活躍で平定され、1816年7月9日、トゥクマン市に参集した各地の代表が国内外に向かって独立を宣言し、現在のアルゼンチンが誕生しました。
  1880年 アルゼンチン共和国の建国
 
独立後のアルゼンチンは、それまでに政治、経済の主導権を握り、海外貿易を目指すブエノスアイレス州(UNITARIA~統一派)と国内生産に重点を置く地方の各州(FEDERAL~連邦派)との抗争を経て統一派が勝利し、1880年にブエノスアイレス市に連邦首都が設定されました(ブエノスアイレス州の州都は1882年にラプラタ市に移転)。このブエノスアイレス連邦首都の誕生により、アルゼンチンは名実ともに統一された共和国として発足しました。1853年にはウルキッサ将軍の下で憲法が制定され、安定した体制のもとで経済は急速な発展を遂げ、大統領が6年毎に交代する政治的に安定した時代が 1900年まで続きました。
 

憲法を制定したウルキッサ
1920世紀 成長期
アルゼンチンは19世紀から20世紀にかけて飛躍的な経済成長を遂げました。年平均経済成長率が6%という時期が30年間続き、イタリア、スペインなどヨ-ロッパから移住者が押し寄せました。特に第一次世界大戦前は350万人に上る移民が導入され、人口は45年間で約174万人から約789万人(約4.5倍)へと急増しました。人口の増加により、政治の世界でも大衆の代表を増やすよう求める声が強まり、移民たちは新しい政党を結成していきました。後に政治運動の中心となる社会党や無党派層や急進党が結成されたのもこの頃です。彼らはアルゼンチン初の労働組合を誕生させ、1916年までには中産階級が政治に参画する道が開かれました。こうした中で、初めての非保守派からの大統領となるイポリト・イリゴージェン(急進党)が大統領に当選しました。

演説するペロン
ペロンと軍事政権
2次世界大戦終結の翌年、1946年に大統領に就任したペロンは労働者優遇政策をとり、工業化を推進しました。しかし、急速な工業化政策と労働者優遇化政策は国家財政を圧迫し、インフレと農業生産の停滞を引き起こします。また、その国家社会主義的な手法は全体主義的・独裁的傾向を強め、国民の離反と教会との対立を招きました。ペロン政権は1955年の民衆の蜂起と軍部の革命により崩壊します。1955年、ペロン失脚後は3年にわたり軍政が敷かれ、ペロン派の弾圧やペロンが残した政治体制の解体が行われました。その後民政が8年間続きましたが、軍事政権下の弾圧を切り抜けたペロン派は労働者階級を基盤として依然勢力を振るいました。一方、国内経済は悪化の一途をたどり、インフレ、国際収支の悪化、労働争議などの悪条件が重なったため、1966年、再び軍部による革命が行われ、軍事政権が成立しました。
 軍部は国家再建を目的に政治、経済、社会全般にわたる大改革を画策しましたが、政治、経済事情は悪化し、インフレと労働争議が頻発しました。国民の間には軍政への反感が強まり、テロ行為が横行する混沌とした時代に突入します。混乱はペロン派の政治活動と相まって7年間の軍事政権が終わり、民政に復帰しました。
 1973年の総選挙でペロン派政権が誕生しました。ペロン政権実現に必要な一連の措置がとられた後、1973923日、ペロンは62%という史上最高得票率で当選し、第2次ペロン政権が成立しました。 ペロンは物価の上昇対策とテロ対策を最重要政策として掲げましたが、1973年末のオイルショックをきっかけに再び物価が上昇し、同時に賃金の引上げが要求されるようになると、物価と賃金上昇の悪循環が始まりました。また、治安も好転せず、ペロン派内部の主導権争いも激化して、国内各地のテロ、ゲリラ活動は次第にエスカレートしていきます。1974年にはペロンが死去し、ペロン夫人(エバの死後に再婚したイサベル)が即日大統領に就任しました。その後は政治的混乱、経済の悪化、官政界の汚職、腐敗、モラルの低下など問題が山積し、テロやゲリラ活動を激化しました。
 

マルビーナス戦争戦没者のモニュメント

3次軍事政権とマルビーナス戦争
1976年、極度に混乱した国内の秩序を回復し、混乱状態から脱却することを目指して軍部評議会が政権を担当するとの布告に続いて、平穏に軍事革命が実行され、ビデラ陸軍長官を首班とする軍事政権が成立しました。この軍事政権は厳しい弾圧でテロ、ゲリラ活動を抑え込みましたが、70年代後半から80年代後半にかけて、15000人から3万人におよぶ活動家や一般市民らが軍事評議会によって誘拐され、拷問を受けて行方不明となりました。この犠牲者らはデサパレシード(Desaparecido=姿を消した者)と呼ばれアルゼンチン史に深い傷を残しました。2006年にはこの軍事政権下の弾圧を忘れまいとする記念日が制定されました。
 ビデラ、ビオラに続き、政権の座に就いたガルティエリ将軍は国民の政治不信を反イギリス感情へとすり替えようと、1982年にイギリスが統治するマルビーナス諸島(フォークランド諸島)を武力占領し、イギリスとの間にマルビーナス戦争を起こします。約10週間の戦闘の後、750人の戦死者を出したアルゼンチンは降伏を余儀なくされます。マルビーナス戦争の敗退に伴うガルティエリの失脚後は、ニコライデス、ビニョーネ将軍が大統領に就任しましたが、敗戦によって軍事政権の権威は失墜し、1983年に民政に移行するための総選挙が行われました。
 

  民政化
総選挙では急進党のアルフォンシンが公正党の候補を大きく引離して当選し、大統領に就任しました。アルフォンシン大統領は 内政、外交面で成果を挙げましたが、インフレの再燃と経済活動の停滞、陸軍部隊の反乱(1987年、1988年)、ゲリラ活動(1989年)、労働攻勢など国内では問題が続発します。大統領選挙を控えた19893月には経済状態の悪化に伴って経済相を首班とする経済グループが退陣し、これを契機に経済は急速に悪化します。2回にわたって行われた経済相の更迭にも関わらず事態は収拾できず、遂にアルフォンシンは5カ月の任期を残したまま、政権放棄を迫られました。
 19895月の大統領選挙は与党の急進党が大敗、野党の公正党(ペロン派)から立候補したメネム(ラリオハ州知事)が大統領に選出されました。 混乱した経済再建、公共部門の合理化、対軍部政策、労働者対策など困難な問題が山積していましたが、メネムは就任後直ちに従来のポピュリズム的政策を転換して、市場メカニズム主導型の自由開放政策への移行を図ります。彼は財政再建に積極的に取り組み、1991年には兌換法(固定為替制度)を導入しました。1ペソが1ドルに固定された結果、インフレは急速に低下して経済の安定化が図られました。
 貿易の自由化、関税率の引下げ、外資規制の全廃といった自由開放政策に加えて、規制緩和、金融改革などの広範な構造改革を実施した結果、外国からの活発な資本流入にも支えられて、マイナス成長だった80年代から一転して91年から94年までは平均8.9%の高い経済成長を実現しました。 しかし、19957月に発足した第2次メネム政権では18.6%にのぼる失業問題がクローズアップされ、政府の支持率は低迷します。メネムは先進諸国を中心とする国際経済体制の中で経済の再建を図ることを外交の目標として、米国、欧州諸国、日本との関係強化にプライオリティを置きました。また、1995年のアスンシオン条約に基づく南米共同市場「メルコスール」を軸に近隣諸国と友好関係を維持しつつ地域統合の推進を図りました。

メネム大統領
経済危機とその後
 199912月に発足したデ・ラ・ルア政権は、行政組織を8省から10省と変更し、これまで17あった大統領府に属する庁と30以上の関係課を大幅に削減しました。
 2000年、政府は公務員の給与削減、租税収入の連邦・州間配分制度の見直し、公的医療保険の規制緩和などを内容とする大幅な歳出削減計画を発表しましたが、労働総同盟はこれに抗議するため全国ストライキを実施しました。また、法案可決の便宜を図るため、急進党関係者とペロン党上院議員等との間で金銭授受があったとの噂が大スキャンダルに発展し、与党同盟自体の将来に影響する問題となります。この政権は200111月の経済・金融危機に端を発した社会騒擾により任期半ばで辞任(同年12月)することになりました。
 ロドリゲス・サアとドゥアルデの暫定政権を経て、034月、繰り上げ実施された大統領選挙でネストル・キルチネル政権(ペロン党)が発足します。この政権では失業、貧困問題に取り組みつつ、IMFとの合意に基づく経済再建と1885
億ドルもの債務問題解決が重要課題となっていました。しかし、2005年末にはIMFの影響下から脱して自由な経済政策をとることを目的に、債務を完済しました。
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